更新日:2026年5月12日

八丈島の歴史

世界のあけぼの

八丈島の古代については、考古学会でも無人島であったとされていましたが、昭和37年夏、樫立で三原中学校の生徒が磨製石器を発見したことがきっかけとなって湯浜遺跡の調査が始められました。昭和52年には、倉輪遺跡が発見され人骨や装飾品なども出土しました。これらの遺跡調査から次のことが明らかになりました。

  1. 八丈島には7,000年程前には人が住んでいたが、ずっと住み続けていたわけではない
  2. 遺跡の規模、神津島産の黒曜石の矢じり、本土から持ち込まれた縄文式土器、丸木船を作ったと思われる石器などが出てきていることから、人々は島伝いに移ってまた移り去ったか、あるいは死に絶えた
  3. 水が近くにあり、木の実や山芋、魚貝・鳥などを入手し易い場所に住居を構えていた
  4. 倉輪遺跡時代に犬や猫の骨が多数出土していることから、以前に持ち込んだ猪が増え、狩りをしていたのではないかと考えられている

湯浜遺跡の出土品(八丈島歴史民俗資料館 展示)

湯浜遺跡の出土品(八丈島歴史民俗資料館 展示)の画像
昭和37年、八丈温泉ホテルで温室造成工事を行ったとき、大型の磨製石器が採集され、この遺跡が知られることになった。
東京都教育委員会の調査で2軒の竪穴式住居跡が発掘された。
縄文時代早期(約7000年前)に編年され、その諸様相は南方諸島、あるいは黒潮の流れる地域からの伝来を思わせる。
しかし神津島産の黒曜石が石器に利用されていることなどから伊豆諸島や本土とも密接な関係をもっており注目されている。
(八丈島歴史民俗資料館より)

倉輪遺跡出土の縄文土器(八丈島歴史民俗資料館 展示)

倉輪遺跡出土の縄文土器(八丈島歴史民俗資料館 展示)の画像
昭和52年、八丈温泉ホテルの温泉プールの拡張工事で多量の遺物が発見され知られることになった。
その後、東京都および八丈町の両教育委員会により数回調査が行われ、埋葬人骨をはじめ縄文時代前期終末(約5000年前)から中期初頭(約4800年前)にかけての遺物が多量に出土した。
東京都最南端の縄文時代の遺跡として注目されることになった。
(八丈島歴史民俗資料館より)

倉輪遺跡出土の石製装身具(八丈島歴史民俗資料館 展示)

倉輪遺跡出土の石製装身具(八丈島歴史民俗資料館 展示)の画像
昭和52年、八丈温泉ホテルの温泉プールの拡張工事で多量の遺物が発見され知られることになった。
その後、東京都および八丈町の両教育委員会により数回調査が行われ、埋葬人骨をはじめ縄文時代前期終末(約5000年前)から中期初頭(約4800年前)にかけての遺物が多量に出土した。
東京都最南端の縄文時代の遺跡として注目されることになった。
(八丈島歴史民俗資料館より)

三つの始祖伝説

八丈島には、系統を異にする三種の始祖伝説があります。

  1. 秦の徐福伝説
  2. 八十八重姫伝説
  3. 丹那婆伝説

明治以前の八丈島

八丈島に統治機関が置かれたのは、室町時代の1338年(延元3年)足利氏その執事、上杉憲顕が奥山伊賀と菊池治五郎を代官として在島させたのが最初とみられます。

1440年(永亭12年)に神奈川の領主、奥山宗林が支配しましたが、15世紀の末期に三浦北条氏の勢力が入って以来、三氏の抗争が続き、1515年(永正12年)になって北条氏が勝利を得、全島を支配するに至りました。この「権力争いの原因は八丈島特産の貢租「黄八丈」にあったとみられています。
江戸時代には八丈本島に三根村大賀郷村・樫立村・中之郷村・末吉村、八丈小島には宇津木村鳥打村と呼ばれる村が存在し、1604年(慶長9年)から明治に至るまで徳川幕府の支配下が続きましたが、この間にしばしば天災地変飢餓悪疫に襲われて折、島民の生活は厳しく苦しいものでした。また、この265年間に約1,900人の流罪人が流されてきました。

八丈島に昔から伝わる絹織物「黄八丈」

八丈島に昔から伝わる絹織物「黄八丈」の画像
黄八丈は八丈島に昔から伝わる絹織物で、伝統的工芸品として国の指定を受けている。
主な色は、黄・樺・黒でカリヤス・タブノキ・シイなど島に自生している草木の煮汁を原料にして染め、色を固定するのに椿・榊の灰汁(黄・樺)と泥の鉄分(黒)を使っていた。
難しかった黄色の発色ができたため珍重され、江戸時代には現物年貢として大奥などで使われていた他、市販もされて島の経済をまかなってきた。

八丈島流人第1号の宇喜多秀家公と豪姫の像

八丈島流人第1号の宇喜多秀家公と豪姫の像の画像
慶長11年(1606年)流 明暦元年(1655年)没
八丈島流人第1号。
関ヶ原の合戦に西軍の総帥として敗れ、34歳で八丈島に流罪。
一行13名。(秀家の長男・次男、医者や身の回りの世話をする男女など)

明治以降の八丈島

昔の島民の暮らし(八丈島歴史民俗資料館 展示)の画像
昔の島民の暮らし
(八丈島歴史民俗資料館 展示)
伊豆諸島は明治元年に韮山県、同4年に足柄県、同9年に静岡県の所管となり、同11年1月11日に東京府に属して以来、東京都の今日に及んでいます。
明治41年に八丈島の5ケ村に島嶼町村制が施行されましたが、八丈小島の2ケには施行されず、昭和22年10月の地方自治法施行まで名主制度が続きました。

八丈町の成立

現在の八丈島(登龍峠からの展望)の画像
現在の八丈島
(登龍峠からの展望)
昭和29年10月1日、町村合併促進法により三根村樫立村・中之郷村・未吉村鳥打村の各村が合併して「八丈村」となり、翌30年4月1日、八丈村・大賀郷村宇津木村の各村が合併して「八丈町」が誕生し、今日に及んでいます。