ここ大坂(おおさか)は、かつて島最大の交通の難所で、江戸時代はつづら折りの「大坂道(おおさかみち)」と呼ばれ、源為朝(みなもとのためとも)が弓で射抜いたと伝えられる「掘り切り」に通じていた。ここを境に大賀郷(おおかごう)・三根(みつね)は坂下(さかした)、樫立(かしたて)・中之郷(なかのごう)・末吉(すえよし)は坂上(さかうえ)と呼ばれている。明治40年、日露戦争戦勝記念に現在の道路とトンネルの原型ができた。その後莫大な費用を投入してトンネルの拡幅と陸橋、道路の整備を行い、平成6年に現在の形となった。
夕日の美景が、八丈八景に謡(うた)われている。
そばだてる 巌(いわお)に憂(う)きを 隔(へだ)てつつ
夕日涼しく 越える大坂
鹿島 則文(かしま のりふみ)
鹿島則文は八丈八景を選んだ人物。尊王思想を鼓舞した勤王の志士であったため、慶応2年(1866)に八丈島へ配流された。明治元年(1868)に赦免された後、勅命により伊勢神宮の責任者を勤め、晩年は鹿島神宮大宮司となった。